自己の・利益・成績・名誉・部下・の為の仕事は、一義的には否定されなければならない。
興味
興味は自然とは産まれない。微かな疑問を持った時、美と醜と悲劇と喜劇と感動と失敗に遭遇したとき、あるいは判断した時興味が産まれるきっかけとなる。何故そうだったのかを完全に理論化するまで考える。興味が尽きることなく産まれるに違いない。
大衆迎合コマーシャリズム
若い頃、ひとりの部下を連れ取引先と食事をした。酒が回ってきた頃部下が得意気に、わたしは会社を一歩出ると仕事のことはカケラも考えた事がないですよ、と言った。わたしは部下の向こう脛を革靴の先で思い切り蹴った。商売の取引先がもしそのような考えならわたしはすぐ取引を中止にする。その後その部下は長年勤めたが業績に貢献できたことは一度もなかった。無駄飯食いの社員である。
会社を一歩出たら気持ちを切り替える事がクールだとするポピュリズム的大衆迎合コマーシャリズムがあるのだろう。仕事ができないサラリーマンが飛び付きそうなコマーシャルである。仕事も、マニアでなければならない。マニアだけが仕事を愉しみ、真の業績に近づき、人生を愉しむ事ができる。酒を呑んでいる時も映画を観て感動している時も、アビームの風を受けセーリングをしている時も、デュアルcpuのようにマニアは後頭部でフル稼働し顕在意識に顔をだすチャンスを窺っているのだ。
セオリー
セオリーによるプロジェクトは破綻する。セオリーにより判断する個人も企業も破綻する。セオリーを疑い否定できるとき、否定が緻密であるなら破綻を免れる。緻密なセオリーは存在しない。背景は静脈のようにひとつとして同一ではないからだ。
世間に流通するセオリーは、現場に通用するものは何ひとつ無い。緻密にねりあげられた現場のセオリーもセオリーになった途端、つねに否定されるべき本質であることには変わりがない。
セオリーに保存共有されるべき価値はない。疑問と否定とにより自らのセオリーを追求するツールにすぎない。
世間のセオリーを否定できない社員、セオリーすら知らない社員、世間はいろんな社員に溢れる。
創造
土日あるいは夜自宅に居る時間、あるいはベッドに横になった途端、(考えようとしないのに)仕事のことが脳裡にうかぶ。
会社に着いてさあ仕事をしよう、と始める仕事は、単に報告書をつくるような作業である。プライベートな時間、仕事のことが脳裡に浮かび考え込んでしまう時間が、価値のたかい創造の時間である。
あなたのプライベートな時間について質問します。
1. 脳裡に浮かび考えこむ比率は
趣味のこと %
家族のこと %
仕事のこと %
2.仕事のことが頻繁に脳裡に浮か
び深く考えてしまう。yes no
氏名……………………
週末どのような仕事のことを考えたのか具体的報告書を週明け提出して下さい。