"生きかた"

活用出来る可能性があるという空想は評論家の妄想であり何の役にも立たない。可能性は何処か。組織あるいは誰かに主体性を期待し空想することは愚かだ。言うのであれば、自分がその可能性を実践するというべきである。

分科一類法学部卒国家公務員キャリア組かもしれない大蔵省の若き課長たちと酒を呑んだことがある。大蔵省が批判されているが自分たちにはどうにもならない、と言う。自分という主体は、何処にあるのか。貶されて泥棒猫のように一生月給泥棒をするつもりなのだろうか。キャリア組の真似をする必要は無い。

行為と発言には責任があると言ったら会議で発言する社員が居なくなったという笑い話がある。萎縮しないような運営が必要であると無知蒙昧無能無責任な評論家が言うけれども、そのような社員が多い会社に社会的存在理由は無い。

内部に評論家はいらない。必要なのは、自分ひとりのみで問題解決の責任を負おうとする主体である。隗より始めよ。評論と結果責任との違いが理解できない内部者は1円の価値もない。

深く考えられない体質と深く考えつづけなければ不愉快になる体質とがある。体質は本質的生きかたである。あなたは論理が正しいからその判断をしているのではなく、生きかたとして都合のよさそうな判断の方法を選んでいるだけだ。物心ついたころからの生きるための習性である。すこし考えれば馬脚があらわれる論理であり15歳の選択でもある。そういう生き方しか出来ないのだ。

誤ちを自覚できない。誤ち率50%未満は誤ちのうちに入らない許容範囲だくらいの知能しか持たない。クビになりかかっても気がつかない。何度でも繰り返す。総括できない知能なのだ。息子ならどう対応するだろうかと考えた。激しく諦めてしまうのかもしれない。

"焼魚"

主婦の料理水準の象徴は焼魚だと思う。何処のランチ定食の焼魚にも負けない焼魚を家族に提供出来て1級の主婦料理人であり、内心家族の尊敬を得られるものと思う。ご主人は外房大原の生まれですから、さぞ美味しい焼魚を食して育ったものと推察します。
そこで一度あなたの最高の焼魚料理を食してみたいと思う。焼魚の王様はやはり秋刀魚とか鯖とか鰯でしょうか。焼魚の極意とかを調べてみる必要もないとは思いますが、仕入れたばかりの鮮度のよいプチプチと身が張り脂の載った魚をキチンと下拵えをし万全な焼き方をして欲しいと思います。是非食べさせてください。

"英語"

ウォーダンスというアフリカの子どものドキュメンタリーを観た。英語が異様だった。やらせではないですかと友人が言った。
アフリカは英語と仏語の公用語が多かった。

"後悔"

後悔はしなければならない。
今更何になるとアホは言う。がしなければ、何のために生まれてきたかが分からない。何故アホな判断をしたかを知る必要があるのです。そのために生まれてきたのですから。

"クリスマス"

ひとり
てをのばす

こわれる
たまがわのふゆ

じじつをうけいれ

かみをあらう
せっぷくのあさ

うつくしくなれない じごく

しんじゆうする
しろいくも

そうていしない
かなしみ

できない いちども

わたしがわるい
ふこうなかぞく

なまえをならべ
はかをつくり

やくそくをする

しんぞうが
かえってきた

おかえり 
てっこんきんくりぃと

はをいれてきて
けんびし

ふゆ ひとりひこうきをとばす

こうえんのべんちの
あかいおまもり

こうえんにかぜがふき
とおいひのはんそう

たがいの
じゅみょうの

さんじゅうおくねんの ゆび

生まれた意味

わたしが不幸だとするなら(生まれたことが原因なら)生んだ親の責任ではなく勝手に生まれたわたしに責任があるとする命題はとりあえず認めない。

記憶もなく親に捨てられ、子を育てあげたのちに、老いた親に逢いにゆく。逢いに行って佳かったと思う。親を赦せたと思う。だが、本当は親を赦せなかった自分を赦したのだ。

一行のボードレールに如かず、という言葉がある。芥川龍之介の"或阿保の一生"の言葉である。肯定しても否定しても、いずれにしてもDNAの戦術なのだろう。

何故生まれてきたのか、あなたに会うためというのは容易い。あなたに会うということはあなたを知ることに他ならない。ところがわたしが知るあなたは"あなた"ではなく、わたしのプリズムを通した"あなた"なのです。わたしが"わたし"のプリズムを知らないかぎり、わたしは本当のあなたに近づくことも会うことも出来ないのです。ですからわたしはあなたに会えるために、"わたし"を知るために生まれてきたのです。

"宝くじ"

下北半島の人に宝くじ7億円が当たった人がいたとのこと。可哀想にと言ってしまった。
20歳のときに観たジャンジロドウの間奏曲の一幕を思い出した。
"病気は病気持ちのところに、
貧乏は貧乏人のところに、
お金はお金持ちのところに"
病気持ちは病気になるような考えかたをし、貧乏人は貧乏になるような考えかたをしている、ということである。
大金の宝くじが当たってしまったという映画の主人公は不幸になるのがきまりである。お金持ち以外の人には大金の宝くじは当たってはいけない、ということなのだろう。