映画神々の男たち、を観た。
わたしは宗教の理由を理解しない。全学連のデモまえの歌とシュプレヒコールを、殉教者の宗教歌を、理解しない。死を予感する最期の晩餐白鳥の湖に涙をながす修道士を、わたしは憎悪する。わたしに信仰がないからだろう。ハタチのときのアルジェの戦いとか沈黙はつよく感動したのだが。

他者について

他者を意識するときは言葉とのむきあいかたの相異を、つよく意識したときである。なんとつまらない意味で言葉を使うのだろう。なんとかなしく貧相な育ちなのか。

言葉に内包される無限の意味を探そうとする人は殆どいない。無限のなかからひとつの意味のみが抽出された言葉。自分につごうのよい惨めな使いかた。まるでそのひとの人生のようだ。

言葉とのむきあいかたが仕事とのむきあいかただ。自分とのむきあいかた、あるいは命との、あるいは恋人とのむきあいかただ、とおもう。

自分の欲求をとおしたいから普通の人は脳が無意識のうちに欲求を正当化出来そうな理論をでっち上げる。普通の人は自分の欲求を否定する考えは理解したくないから理解できない。レベルの高い人はそんなふうにはならない。

「本質的に問題を解決しようとするんですね」と年の若い友人に言われたことがある。本質的には解決できない、彼はそんな生きかたをしてきたのかもしれない。
  本質的に解決しようとしなければ、何のために仕事をするのかわからない。乞食ではないからそんな仕事はしたくない。せっかく生まれてきたのにかわいそうだ。