ねばならないという考え

ねばならないという考えかたがわたしは強い。長男だからなのかフルコミ営業職につきすぐリーダーを指名されたからなのか26才から社長をしたからなのか。考えかたを押しつけることも共有することも不可能なのだけれど、可能性の幻想の微細な欠けらが時にわたしを占領する。
遺伝子も生立ちも既に太古から定められた無知蒙昧、思考論理も幼稚をきわめ、恐れげもなくわたしに逆らう。遂にわたしは白顔となる。

口語詩句72h投稿サイト

詩を読んでいて、わかるけれどもそんな生きかたはしたくないとか、わかるけれどもだからどうなのとか思うことがある。生きかたの在りようなのだろうけれど、感動するセンチメンタルと感動できないセンチメンタルとがある。魂がふるえる小説を読みたい、魂がふるえる映画を観たい、魂がふるえる詩を読みたいと思う。巡りあうために生まれてきたのだとおもえるような詩人の詩を読みたい。

詩について

詩について考えることがある。
詩は、一瞬のセンチメンタルとか一瞬の言葉の飛翔ではなく、たとえば朔太郎の詩は何を読んでみても、そこにあるのは朔太郎の寂寥の一貫した方向性である。朔太郎をはなれた一瞬のセンチメンタルも、朔太郎をはなれた一瞬の言葉の飛翔も存在しない。詩はその人の在りようを抜きにしては成立しない。のがれようのない在りように触れたい。