*大昔のメモ

福井の永平寺に参禅をした時のことである。着物に袴をはき、足袋をはいて廊下に整列をした。
『心は教えることができません。ですから、形を教えます。形の意味については、自分で考えて下さい。何故そうであるのか、心については自分で考えて下さい。』
若いお坊さんの言葉である。


形とは何だろう。会社の規則も方針も形だ。知識、お金、仕事の仕方、マニュアル、言葉、みんな形だ。形は、すぐ変わる。時代により、人により、気候によってさえ変わる。心を教えることができないから、形を教えている。形は形をととのえ始める時腐り始め、形となる時、腐ることで完結する。だから、形に、価値があるのではない。例えば、会社の経営についてとか、部下の指導について、とか、定評のある書籍があったとしよう。そして本の通りに行ってみる。必ず失敗する。何故か、本にあるのは、形だからだ。例え、心について書かれてあるように見えても、形だ。形は、悩み始める為の一歩に過ぎない。形は、心を知る為のきっかけに過ぎない。あるいは、理解する、納得するといいかえてもよい。理解した、あるいは納得した、と思った瞬間に形になる。理解をするということに、これで“やや十分”、ということはない。知能のある人程、これで理解できたなどと思わないものだ。会議には4種類ある、と教えられると4種類しかないものと考える。これは、何も考えていない証拠だ。


形は考える者のきっかけに過ぎない。又、考えることにこれでよいということもない。