高等教育の無償化についてわたしは反対です。
小学校中学校でキチンと算数を学習できれば現在の理数系を除く大学生の算数学力の平均を上回るのではないかと考えている。
中学の算数の受験問題を規定の倍の時間を与えたとしても全問正解できる小学校の先生は、理数系出身者を除くと30%もいないのではないかと思います。中学受験は方程式を使えないわけですから、考える能力が必要となります。
小中学に能力のある先生を大幅に増員し、履修水準に達しない生徒を留年させる必要があると思います。同じような考えの新聞記事を拝読させて頂きましたので、下記に引用させて頂きます。


読売新聞 2017年12月3日 朝刊
高等教育無償化は愚策 山崎 正和氏の考えより
「意欲と能力がありながら、家庭の経済的事情で進学を断念する若者を可能な限り減らしたい」。読売新聞、本年10月15日の社説の冒頭の一説である。内容は、いま話題の高等教育無償化について論じたものだが、問題の本質はこの最初の1行で尽きている。
義務教育を終え、高校、大学へ進む最大の資格は本人の「意欲と能力」なのだが、不思議なことに、かねて文教政策の論議の中にこの一句を聞いたことがない。先の総選挙でも、各党が高等教育進学の公費援助を約束したものの、その受益対象者はもっぱら貧しい若者というだけにとどまり、当の若者が進学意欲に燃えているかどうかを問題にする声はなかった。
一方、現実の高校、大学を見ると、どちらも学問にあまり興味はなく、世間の空気に乗せられて進学する若者が少なくない様な気がする。「みんなが行くから」「親が勧めるから」という理由で進学し、在学中はアルバイトとゲームに没頭したうえ、単位だけをとると就職活動に奔走する学生も例外とは言えなさそうである。
そういう実情を憂えてかどうか、昨今の高等教育無償化には反対する人も多い。本年8月号の「文芸春秋」誌にも、中室牧子氏の「教育無償化は格差を広げる愚策だ」という一文が載った。論旨は明快で、国家の全体的な教育費増強には賛成しながら、しかしそれを高等教育に振り向けるのは、格差是正の観点からむしろ逆効果を招くという意見である。
中室氏が着目するのも学業への意欲の問題だが、これを養うには高等教育段階を持ってはすでに遅いという。勉強が好きになるかどうかは幼児期に決まるものだから、義務教育期とそれ以前の家庭教育が決定的に重要である。ところが低所得の家庭では親に心身の余裕が乏しく、子供の学業奨励がおろそかにされがちになる。貧しい家庭の子供たちは生まれつき、学業上の向上心を奪われている。
この状況で高等教育を無償化すれば、恩恵をこうむるのは豊かに育った若者に偏り、真に援助されるべき貧しい若者は取り残されるに違いない。それでは貧富の格差は拡大される一方だから、国家予算は義務教育とその前の幼児教育に傾注し、学業意欲の平等な育成を図るべきだと、中室氏は声を大にする。
アメリカでの研究を基礎にした主張だが、常識で考えてもこれは正鵠を射た説だと思われる。意欲は第二の本能に近いものだから、幼少期に習慣として身についた性向が強いのは当然だろう。その意味で私はこの意見に大いに賛同するものである。
高等教育の無償化は貧富の格差を広げる、との中室氏の主張は傾聴に値する。だが、同時にもし若者の意欲を問題にし、それをめぐる社会的な公正を考えるのなら、これとは全く異なった観点もありうることを指摘しておきたい。
それ格差の問題とは関係なく、一般に若者の生きる意欲は多様であって、自らの抱負にしたがって進んで高等教育とは別の道を歩む青年もいる、という事実である。
農業、漁業、林業などの1次産業、陶芸、染色、木工といった伝統産業、さらに金属へら絞りのような軽工業の分野には、そうした優秀な若者がおびただしくいる。日本はこれらの産業で世界に冠たる水準を誇るのだが、そこで働く初心者は技術を習い、仕事にまつわる知識と倫理を学び、大学生に匹敵する研鑽をおこなっている。にもかかわらず彼らは国の教育助成を受けられないばかりか、勤労者として所得税を払っているのである。
この重大な不公正、不平等が広く認識されれば、世間にはさまざまな救済策が現れるだろう。その一つとして、あるいは高等教育機関をますます拡大し、彼らも夜間学生として受け入れようという意見が出るかもしれない。仕事に関係のない一般教養は大切だから、それを与えるために全国民を大学卒業者にしようという考え方である。
だがこれは私が何より恐れる暴論であり、現行の義務教育の理念も内容も知らない素人論議にすぎない。そもそも国民共通の教養は義務教育が提供すべきものであって、国民統合のために国家が保証すべきものである。基礎的な教養が共通でなければ社会は分裂するから国家は統治行為として教育を行うほかはなく、だからこそ義務教育の普及は国家と国民双方の義務とされるのである。
しかも日本の義務教育の内容はきわめて水準が高く、もしこれを完全に習得すれば社会人の教養として十分以上と言わなければならない。一列だけを挙げれば、数学にオイラーの公式という極度に難解な数式があって、これを証明するには、高等数学によるのが普通なのだが、理論物理学者の大栗博司氏はそれを中学で習う数学だけで証明して見せているのである。(「大栗先生超弦理論入門」)。
はなはだ残念なことに、しかしこの高水準の義務教育は現場では実現していない。かねて述べてきたように、日本の小、中学校には卒業試験も留年制度もないからである。
授業内容の半分も理解していない生徒でも、そのまま上級学校に進学でき、そこでもまた無学をとがめられない。分数の足し算すらできない大学生がいるのが実情であって、日本は「高学歴低学力」社会に陥ろうとしている。
急ぐべきは、まずこうした現状を改善することであり、小、中学校の教員の数を増やし、より充実した授業を課したうえで、全国一律の卒業試験を実施すべきだろう。
もちろんこの新しい義務教育を世間が尊敬し、大企業が中学卒業者を採用し、大学卒と同等に扱うといった、社会気風の転換も必須と言わねばならない。
そのうえでなお高度の専門教育を受けたい若者がいるなら、その意欲と能力の厳正な審査を条件に、授業料のみならず生活費も支援すべきである。いわばこれは学問を職業と見なすことにほかならず、当然、受益学生の側にも伝統工芸や軽工業の職人と同じく、職業倫理の順守を求めるべきだろう。怠ければ除外され、精進すれば賞与を与えられるといった制度設計が必要かもしれない。
だが学問を職業と見なすと言えば、現在の日本にはこれによるはるかに喫緊の大問題がある。すでに大学院も終了して研究現場に立ちながら、臨時採用の身分で将来の不安な若い学者があふれているのである。学問への意欲も能力も完全に証明された、これらの人材を放置したままで、高等教育無償化を説くことは不謹慎と言っても過言ではないだろう。