善と悪

佐々木(以下、Sa):池波正太郎さんはこう言っています。「善人というのは普段は良いことをやっていて、たまに悪いことをする人、これを善人という。悪人というのはたまに良いことをして、普段は悪いことをしている人、これを悪人という。」これが池波正太郎さんの善人と悪人の定義です。私はどっちかな、五分五分くらいかな。
本橋(以下、Mo):普通の人ですね。僕はどちらかというと、悪人の方じゃないかな。マイナスから入った方が、プラスに転じ易い。
Sa:ハイティーンの子は性悪説の方が好きな人が多いんですね。性善説はやっぱりハイティーンの子は取らないんですよ。性善説は何かいかがわしくて、腐った魚の臭いがするっていうんですよ。(笑) だから性悪説の方に惹かれているようなことを言うと、年寄りから「お前は相変わらず青臭いな」って言われたもんです、二十歳前後の頃。
でも、善と悪の定義は難しいよね。善とは何ですか、悪とは何ですか?
Mo:まあ、相対論じゃないでしょうか、善も悪も。例えば法律で言うと、イスラムの法体系では女性がスカーフを被るのはもちろん善ですが、フランスの法体系の下では悪と言われかねません。主観でしか善悪は判断できませんよね。戦争をする両者は当然、自らを善として戦争するわけですよね。そして相手が悪になる。
Sa:悪の枢軸になるわけね。
Mo:だから自分の立場によってコロコロ変わる、非常にいかがわしいものかも知れません。
Sa:第三者的に見るとそうならざるを得ないよね。
Mo:そういう前提を了解していない状態で善悪を判断するのは危険であると思います。
Sa:私は今まで善悪に興味をもったことはないんですね。子供の頃から、私の友達は悪の方の表現をする人が多いのですが。私にとって善とか悪とかあるのかは分かりませんね。自分にとっての善とは何か、悪とは何か?
Mo:それは言い切れないですよね。善とは何かという言い方ではなくて、何々は善であるとは言えるかもしれないですよね。例えば、美しいものは善で醜いものは悪じゃないですか。つまり何々が善であるというようには、説明できない概念なのではないでしょうか。形容詞的にしか言えなくて、そのものを直接定義はできない。それ以上言い様がなくて、あとは範例を挙げることしかできないのではないでしょうか。
Sa:「美しいものが善である。」
Mo:それは一つの例ですね。
Sa:いや、例ではなくて、そういう風に定義しても良いかもしれない。「美しいものだけが善である」だから美しくないものは悪である、例外なく。
大平原、あるいは大海原に夕日が落ちる。私が学生の頃は富士山の麓にいたのだけれど、夕方になるとうどんの玉を買いに行くわけね、8円で。それで国道に出て歩いていくと、ちょうど西の方に向かって、道路の向こうに富士山が見えるわけ。その富士山に半分くらい太陽がかかって、そこから朱色の粉がわーっと降り掛かるように見えました。そういうのを見て、「なぜ人間はこれを美しいと思うのだろう」そんなことがずっと疑問でした。今は多分、美しいと感じるものは、その美しいのと同じものが自分の中にあるのだと思います、生まれる前から。何が美しいのかを学習するのではなくて、そもそも自分が生まれる前から元素の中にその記憶があって、それがその機会ごとに美に感応する部分が発見されてくると、今では思っています。だから自然の流れ、運行とかは美しいのだと思う。よく飛行機に乗って降りるときに、畑とか田んぼとか、川とか道路とかあるでしょ、いつも美しいと思うんだよね。なんで人間がいい加減につくったものが、なんでこんなに美しく見えるのだろうと。
人間の場合はけっこう学習もするから、その中で場面によって感じ方も変わってくるし、あるいは人の表情についてもその人の生い立ちとか環境によって、恐らく場面場面での感じ方は変わってくるであろうし。若い頃はそういったことで、大きく変わるでしょう。例えば、どういう人が美しいとかね。どういう表情が美しいか美しくないかによって、変わるじゃない。表情によって、信用できるかできないかも発見できるじゃない。それは要するに発見の仕方が違うわけです。20代まではそんな風に考えていましたけれど。