古い友人の“雑言居士”という人から、コメントのメールを頂きました。
(http://d.hatena.ne.jp/taiju-ssk/20070506)
面白いので以下の通り掲載させて頂きます。


1、 理性は2流の狂気である。
  とする根拠について述べよ。

2、1流と3流の狂気を定義せよ。

最初の2つの質問と申しましょうか立言に対しては、
まとめてご回答します。

狂気とは、存在論的に存立するのではなく、
認識論的に導きされる。
因って、世界が狂気であるとすれば?との質問自体、
Non Senseである。
さように、世界は狂気たりえないほど、多様であり、
混沌としており、その世界において、
純粋たらんとすること自体、狂気であるがゆえに
理性は狂気である。しかし、その純粋さは、
多様な世界に生じえる(存立しているのではない!)の
純粋さの他の形式を排除せんとするがために二流である。

一流の狂気は、混沌かつ多様たる世界を、
その認識的転回により、拒否し、隔絶し、かつ飲みこんでしまう。

二流の狂気は、あらかじめ不可能であることを承知しつつ、
もしくはそれを忘却したかのように、世界を純化できるかのように
振る舞い、かつ増殖する。(cf: アウシュビッツの悲劇と
ゲーデル不確定性原理によって示された不可能を参照せよ!)

三流の狂気は、世界と共存する。それも、平和裏に、仲良く!
「狂気」という社会的分類に過不足なくあてはまる狂気。
歴史を紐解けば、19世紀に典型的であったヒステリー患者、
20世紀以降の統合失調症(schizophrenia、ある時期、分裂症と
呼ばれた症状)患者とか。
狂気の社会作用、社会転覆への誘惑、社会の振動があらかじめ去勢され、
パプティノコンに閉じ込められた狂気。
これでは、我々と同じではないか?すなわち、自省の意味を込めて
三流と呼ぶ。


3、言い訳をできる人とできない人を定義せよ。

「できる/できない」の分節化は、目的語たる対象として、
もしくは主語たる主体の能力の連関・組合せ・境界として定義される。
「言い訳」は、目的語としての他者の共感を呼び起こす対象
(実体とは別にそれらへの期待も含まれる)ならびに/ないしは
主語たる主体の「呼びかけ」の営為として成立する。
ただし、人間は群生する、社会的とも言う、本能があるので、
共感の対象にはこと欠かない。言い訳は、詰まるところ、
他者の共感を呼び起こすコミュニケーション能力である。
「言い訳」は「言い訳」であることを隠すような素振りを見せつつも
あからさまに「言い訳」であることを誇示しつつ、現象する。
その腐臭から隔絶しつつ、純粋に存在するためには、その主語は一流の
狂気たることが求められる。


4、言い訳をする人としない人を定義せよ。

前述を繰り返す。「言い訳」は人の類を社会的存在たらしめる本能である。
「しない人」は、概ね、しているのをその観察者たる自分が、たまたま
見てない人でしかない。「できない人」との区分において誤解が生じ易いが、
多くの場合、詐称であるので、「王様は裸だ」と叫ぶことをお奨めする。


5、己の生を肯定する為に、男も女も言い訳をしなければならない。

当然である。「生」と「肯定」は同義語であるがゆえに。
フロイトタナトスという死への本能を、語義上、提起したが、
その実在性に対する論拠は乏しい。ただし、前述した、
純粋なる狂気は、概念上、例外として措定される。
なお、主語を「男も女も」としたのは、この立言したる者の
Sexへの哀悼ないしは執着が修辞上、発現したもので、立言の論旨を
展開する上での効果は乏しいものと思われる。


6、そのようにしなければいてもたってもいられない発情を
  才能と云う。

多くの場合、才能は、質ではなく、量としてしか測定され得ない。
質的な転回とは、大抵、量的な躍進の修辞である。
ただし、かのヘーゲルも「量が質に転化する」との言葉を残したが、
ときに、量は質を凌駕しえる、少なくともそのように見える。
近代は、時速10kmにも満たない移動速度が地上で時速200km
空中であると時速1000kmを越える、に至るまでの
Paranoicなときの流れである。近代とは「そのような」凡庸な
しかし熱情的な「言い訳」の加速度的な累積過程である。
その時代的な背景として、「才能」が顕現化し、その極限として
トリックスターたる「天才」がWorkしたのである。
その加速度を、「発情」と呼ぶのは、これまた、立言者の
Sexに対する執念なのであろう、か?近代を男根的修辞を伴って
表現すること、それ自体、近代的であることは指摘しておきたい。