自己を認識するのは言語によってであり、その言語が自己のものであるとはとうてい言いえない。認識の主体が自己と見えるのは、仮想かもしれないのです。 西部邁
考える、ということの原点への回帰。 および懐疑のセンス、 これらが欠落するなら、 南瓜となんら変わることはない。
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