"学歴"

宮古第一中学校3年の時、学力テストがあった。殆ど友人は居なかったのだけれど少しだけ口を聴く学力優秀なチダくんという級友がいた。勉強していないのにテストの結果がよすぎたのでびっくりし彼に見せた。その日からチダくんはわたしと一切口をきかなくなった。高校でも黒板を見ずノートもとらず期末試験7日前から以外は教科書も見なかった。真面目に勉強する人は知能が低いのだと思っていた。

春日部のころ(30〜33才)

7時50分朝礼。夜部下の日報をみながら顧客とのやりとりと結果をヒヤリング。どうすべきであったかをアドバイス。下見についてどういう所が悪かったか良かったか、何故そう思ったか質問。翌日の予定表により行動計画と資料を確認不備があれば再作成指示再作成資料確認。営業部下15人全員終了ほぼ毎日0時過ぎ。資金繰りの悪いときはそれから自分の営業の外観のみの夜間下見。1番売上の多い営業員と月間売上の賭け月5万円。下見の無い時は残っている社員と深夜食。その後は近くの宿舎へ。単身赴任のわたしは月曜から金曜の夜まで会社のソファーベッド。毎週土曜は夜車で春日部へ。月曜は朝5時に車で自宅を出発銀座1丁目へ。
仕事にたいし細部に至るまでかくあらねばという確たるビジョンがなければ部下の仕事の不備は発見できない。仕事の本質あるいは神は、細部に宿る。才能が無ければ何も発見できない。

"期待"

親が大人になる子どもに期待しても許されることはあるのだろうか。期待とは何か。無関心ではなくつよい関心があることだろう。自分のためにあるいは本人のために、他人に期待しても許されることはあるだろうか。子どもと他人の違いは何か。社長が社員に期待することは会社のためにも本人のためにも多分許されるのだろうけれど。

こんな人間になってほしいと親は言うけれど、親であれ他人が人に命令する権利は無い余計なお世話だと考える子は多い。親子は他人ではないと親は思いたい。親に子を育てる義務は有るが成人すれば義務と権利の関係が解消されることを理解したくない親が多い。

子どもが成人してどんな人間になってほしいか、ひとつだけ願うとするなら、わたしは何を願うのだろう。お釈迦さまと同じようなことを願うのだろうか。

"行為と発言の責任"

組織あるいは誰かに主体性を期待し空想することは愚かだ。言うのであれば、自分がその可能性を実践するというべきである。

分科一類法学部卒国家公務員キャリア組かもしれない大蔵省の若き課長たちと酒を呑んだことがある。大蔵省が批判されているが自分たちにはどうにもならない、と言う。自分という主体は、何処にあるのか。貶されて泥棒猫のように一生月給泥棒をするつもりなのだろうか。キャリア組の真似をする必要は無い。

行為と発言には責任があると言ったら会議で発言する社員が居なくなったという笑い話がある。萎縮しないような運営が必要であると無知蒙昧無能無責任な評論家が言うけれども、そのような社員が多い会社に社会的存在理由は無い。単に評論家である大前研一に経営者としてのすぐれた才能がないのは自明の理である。

内部に評論家はいらない。必要なのは、自分ひとりのみで問題解決の責任を負おうとする主体である。隗より始めよである。評論と結果責任との違いが理解できない内部者は1円の価値もない。

深く考えることが持続しない体質と深く考えつづけなければ不愉快になる体質とがある。体質は本質的生きかたの選択である。あなたは論理が正しいからその判断をしているのではなく、生きかたとして都合のよさそうな判断の方法を選んでいるだけだ。物心ついたころからの生きるための習性である。すこし考えれば馬脚があらわれる論理であり15歳の選択でもある。そういう生き方しか出来ないのだ。

誤ちを自覚できない。誤ち率50%未満は誤ちのうちに入らない許容範囲だくらいの知能しか持たない。クビになりかかっても気がつかない。何度でも繰り返す。総括できない知能なのだ。息子ならどう対応するだろうかと考えた。激しく諦めてしまうのかもしれない。

教育の本質

高い所から低い所に水が流れるような行為とかお金持ちが貧乏な人にお金を恵んであげるような行為が教育とは思わない。教育は対等な関係であり闘いのようなもの恋のようなものでもあるが、本質はコミュニケーションである。人は皆悪人なのですからわたしも悪人です、あなたも悪人であることを悟りなさい、そうすれば救われますというお釈迦さまの考えに似ているかもしれない。両者が対等に自己に向き合わなければならない。自己への問いかけと相手への問いかけは同質でなけれぼならない。

自分に対して問いかけないことを人に問いかけてはならない。教育について考えることは自分について考えることである。

議論の本質は、相手の言葉を借りて自分の算数の不足を自分で発見しようとすることである。自分の或る部分を否定し止揚することである。ところが残念なことに自分を否定できる人は多くはない。心が壊れ拒否するのだ。